憂鬱

ロックバンド、小説、日常などについて、脈絡なく

宿命論について

  最近なんのやる気も起きなくて、永遠と折り紙でねずみをつくるだけの機械になっている。わたしがこういうものの凝り方をするの、ガキの頃からなのだけれど、あまりよくないと思う。よく特技としてあやとりをあげる(特技として言えるものがあやとりくらいしかない)が、あやとりもばかたくさんの技ができるというわけではなくて、ひとりあやとり高速周回の効率をいかに上げるかとか、ひとりあやとりはどうして川をつくるときに離す手が変わるのか考えたりとか、すきな技を逆からできるようにしたりとか、そういう易のないことをひたすらやっていた。まあそういう性なのだと思う。折り紙同好会に入ったのはいいけれど、ねずみを折るスピードだけがどんどん上がっていく。

 

  こんな風にあまりにも脳を使わない生活をしていて、やばいと思ったので5年放置していたブログを更新しようと思いたった。講義を受けろと思われるかもしれないが、脳を使うタスクで今のわたしが飛び越えられるハードルがこれしかなかった。お付き合い願いたい。

 

  今日書くのは、今わたしがくずをやっている原因だと自分で考えている、ある思想についてだ。それが宿命論だ。わたしは宿命論について勉強したわけではないので、わたしが信じているこれを宿命論と呼んでいいのかわからないけれど、名前がないと不便なので宿命論と呼称させていただく。今回は、宿命論とはなんぞや、そしてわたしがいかに宿命論を信じるに至ったかなどを語っていこうと思う。

 

  とりあえず宿命論とは、ということでWikipediaから引用させていただく。

宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方。

宿命論という言葉は知らずとも、こういう考え方は誰しもが知っていると思う。今わたしがこうしてブログを更新しているのも、そして書き終わったこの文章をあなたが読んでいるのも、すべては決まっていること、というのが宿命論の考え方だ。

 

  もう少し詳しく書く。今野敏著の「遠くの国のアリス」というSF小説でわたしはこの思想の存在を知った。今この本が手元にないので、完全に自分の記憶を頼りにして書くが、まああたしが信じている考え方ということに違いないので問題ないと思う(問題はある)。

 

  宿命論では、わたしたちの存在は、進んでいく矢印というよりかは、点である。時間はわたしたちの人生上の座標であり、わたしたちはその座標を移ろう点だ。今はこの現在にあなたという存在があるかもしれないが、次の瞬間にはあなたの存在、意識は、小学校の授業中にあるかもしれない。はたまた老衰の果ての死の淵にあるかもしれない。あなたには今の自分自身が最新であるという意識があると思うが、それは間違いであるということだ。あなたという存在が人生の瞬間瞬間を移ろうたびに、直前の記憶が鮮明になり、直後の行動を決定する。未来から過去に飛ぶときにはその飛んだ時点での未来の記憶はリセットされる。このようにしてわたしたちは今を生きているという感覚を覚えている。

 

  「遠い国のアリス」の中で、この考え方のわかりやすい見方が紹介されていた。わたしたちの人生、一瞬一瞬の記憶、感情、その他すべての情報が書かれたポストカードが1枚ずつ収納された棚があるのを想像して欲しい。そこに天使がいて、天使は気まぐれに棚を開けて中身を確認する。確認したらポストカードをまたしまい、別の棚を開ける。永遠に天使はそれを繰り返す。天使が開けた棚に、わたしたちの意識があるという訳だ。これが「天使の郵便棚」とかそういう名前で紹介されていた、気がするのだけれど、インターネッツでいくら調べても出てこないのでたぶん名前が間違っている。フレッド・ホイルが提唱した理論だった気がするのだけれどそれも出てこないのでたぶん間違っている。気になりすぎて木になったからAmazonでフレッド・ホイルの本を買ったので、読んで何かわかったら追記したい。

 

  なんとなく宿命論の考え方が伝わっただろうか。宿命論を使うと、デジャヴュという現象を説明づけられると思っている。かんたんに言えば、リセットしなければならない記憶をリセットし損ねたものがデジャヴュだ。巷にいる予知系能力者の方々も、これを延長して考えられる。彼らはおそらく記憶力がいいのだろう。というよりかは、普通の人間が持っている、未来の記憶をリセットする機能が働かないことがあるのかもしれない。わたしが宿命論を信じるきっかけになった出来事が起こった要因もこれと同じだと考えている。

 

  村上春樹という作家を多くの方がご存知だろう。日本でいちばん熱狂的なフアンが多い小説家かもしれない。高2の冬、模試の帰りに電車で彼の作品、「騎士団長殺し」を読んだ。読み進めていて、ある箇所でわたしは、"模試の帰りに電車のここに座ってこの文章を読んだことがある"と思った。騎士団長殺しを読んだのはそれが初めてであるが、次の展開がどうなるか、ここで主人公がなんと言うか、全てを記憶していた。村上春樹というのが話をややこしくするのだが(村上春樹の作品群は、同じようなシーンが多数ある)、あれはそういう次元の話ではなかった。これをきっかけにわたしは「遠い国のアリス」で語られた宿命論を思い出し、それに取り憑かれるようになった。

 

  宿命論は、漫画の主人公の掲げるような、「運命を変える」「人生を切り開く」みたいな考え方と相反すると感じる人がいるかもしれないが、わたしはそう思わない。たしかに、宿命論は諦めの理由として都合がよすぎる。わたしは典型的なだめな例だ。「自分ががんばらないのはそう決まっているから」という甘い誘い文句にまんまと乗っかって、だめ生活を送っている。本当に弱い人間だ。しかし宿命論を知った人でも、がんばる人はたくさんいるだろう。そういう人はいい人生を送ることが決定しているのだ。宿命論は究極の諦めの考え方でもあるが、悪いことが起きた時に、それを乗り越えるのをすごく助けてくれるものだと思う。わたしは宿命論を信じるようになってから、後悔したことが一度もない。わたしは、後悔先に立たずという言葉がすきだ。後悔している時間ほど無駄なものはない。この駄文をここまで読んだ人が、なにか不幸にあったとき、宿命論を思い出して、後悔する時間を前を向くための時間にしてくれればいいなと思う。5億円そらから降ってこないかな。