憂鬱

ロックバンド、小説、日常などについて、脈絡なく

「かかしと召し使い」をみんな読みなさい

  ぶち破られる瞬間がある。小学3年生の頃からおよそ10年読書をしてきて、それは3度ほどあった。普段からずっと考えている訳では無いが、おれの中には、「小説のおもしろさってこんなものだよな」という意識があるみたいだ。その上限みたいなものがぶち破られる瞬間があって、もしかしたらそれを味わうためにおれは小説を読むのかもしれない。

 

  1度目は中一の時に読んだ森見登美彦著の「夜は短し歩けよ乙女」だった。頭をガンと殴られたような衝撃という表現があるが、まさにそれがあった。変な感想だけれど、「小説ってこんなおもしろくていいの!?」と思ったのをよく覚えている。底抜けにおもしろい。小説はこんなにもおもしろおかしく書けるのだ。まさに小説のおもしろさの上限をぶち破られる経験だった。小説という地平がぶわっと広がる経験だった。初めて作家という存在を強く意識し、「この人の書いたものは全て読まなくては」と思った。

 

  2度目はカート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」。これは高一の時だったと思う。タイタンの妖女は今まで読んだ小説のどれよりもふざけていて、意味がわかんなくて、美しかった。おれは涙もろい方なので、御涙頂戴の小説を読むとすぐ泣いてしまうのだけれど。どう考えてもタイタンの妖女は御涙頂戴の小説ではなくて、でもおれは読みながらぽろぽろと泣いた。それはその美しさに感動したからだと思う。人間の美しさみたいなものがむき出しになっている小説だ。小説ってこんなにも美しく、感動的なものなのだとヴォネガットが教えてくれた。

 

  そして3度目。ここで「かかしと召し使い」の登場である。「夜は短し」と「タイタンの妖女」に無茶苦茶に広げられたおれの中の小説世界は、ぶあっつい壁でふさがれて、完成されていた。それをかんたんにぶち壊したのがフィリップ・プルマンの「かかしと召し使い」だった。

 

  おれは精神が小学生なので、「一番すきな○○」みたいな話をするのがだいすきだ。でもこれって選ぶものがすきであればある程難しい。たとえばおれはロックバンドがすきだけれど、一番すきなバンドを尋ねられたらそれは決められない。すきな曲なんてなったら尚更だ。でも一番すきな小説を聞かれたら、「かかしと召し使い」って即答する。小説もバンドと同じくらいすきだけれど、かかしと召し使いはおれの中でそれほどに圧倒的なのだ。

 

  「かかしと召し使い」に出会ったのは高三の冬だった。おれはとにかく勉強がしたくなくて、勉強するって親に言って机に向かってずっと小説を読んでいた。家にある小説を全部読み返す勢いで。そんな時にちいちゃな頃に従兄弟にもらった本が詰まった紙袋を見つけた。懐かしがりながら1冊1冊手に取って眺めていたのだが、その中に1冊だけ読んだことのない本があった。それが「かかしと召し使い」だった。それは児童文学だったけれど、その時のおれはとにかく小説に飢えていたし、なぜこれだけ読んでいないのだろうと不思議に思ったのもあってその本を開いた。そしてすぐに夢中になった。夢中で、泣きながら読んだ。児童文学なので大した文量はなく、すぐに読み終わってしまって、読み終わった瞬間にもう一度読み直した。

 

  「かかしと召し使い」に流した涙は「タイタンの妖女」に流した涙とは意味がちょっと違った。かかしの心の気持ちよさに感動したというのも勿論あるのだが、それよりも、文章、ストーリー展開の綺麗さに感動した。読み終わった後、「完璧な小説だな」と思った。これは初めての経験だった。

 

  雷に撃たれて生命を持ったかかしが飢えた少年を召し使いにして冒険するというまあすごく簡単な筋なのだが、各エピソードが本当に素敵でおもしろい。おれは、主従関係、師弟関係みたいなのにとことんよわいのだけれど、かかしと召し使いはおれのその癖にぶっささり。かかしは召し使いのことをすごく頼りにしていて、召し使いはかかしのことをおばかさんだと思ってるけれど、その勇気とやさしさに惚れているという。これがね、本当によいんだ。このふたりの関係性とても素敵。また至るところに皮肉が効いていて、けっこう考えさせられる物語でもある。戦争批判とか、環境問題とかそういう難しいところに、ちからを抜いてさらっと言及しているのがすごく格好いい。「夜は短し歩けよ乙女」と「タイタンの妖女」はある程度小説を読み慣れた人でないと楽しめないかなと思うけど、「かかしと召し使い」はなんてったって児童文学なので、小説を普段全く読まないという人でも絶対に楽しめる。みんなに読んで欲しい、隠れた名作。おすすめです。