憂鬱

ロックバンド、小説、日常などについて、脈絡なく

哀悼、亀川千代

 亀川千代が亡くなった。この哀しみをぶちまけずに自分の中で折り合いを付けることができそうもないので、短くても、拙くても、このザワザワとした気持ちを文章に残そうと思う。

 

 彼がだいすきだった。「いちばんすきなギタリストは?」という質問も、「いちばんすきなドラマーは?」という質問も、小一時間考えさせてくださいと言わせてもらいたいくらいの難問だが、「いちばんすきなベーシストは?」と問われたら、亀川千代と即答するだろう。ぼくが男のロン毛がすきで、すぐ髪をのばしてしまうのは彼の影響だ。

 

 みんながベースという楽器を初めて意識したのはどんな音楽だろうか。ぼくはゆらゆら帝国だった。初めて3×3×3を聴いた時、「ベースってこんな無茶苦茶していい楽器なのかよ!」とつよく衝撃を受けた。ベースラインが動きまくるのだ。うねるようなベースラインと評される彼のプレイにぼくは魅了された。どんな激しい人間がこの演奏をしているのだろうと思ってライブの映像を見たら、そのバンドでベースを握っていたのは、めちゃ長姫カット、全身黒づくめ、身体を一切ゆらさずに淡々と演奏する妖怪のような男だった。かっこよかった。

 

 ゆらゆら帝国というバンドがだいすきだ。たくさんすきなバンドがあるが、ゆらゆら帝国NUMBER GIRLの2バンドは、中坊の頃からYouTubeでライブ映像をくさるほど見漁り、ぼくの中で神格化されているように感じる。「何故この時代に生まれなかったのだろう」といつも思っていた。彼らのライブに行きたかった。ぼくが高校生の頃、NUMBER GIRLが再結成した。再解散するまで何回も見に行った。絶対ないと思っていた事が起こったのだ。ゆらゆら帝国もいつか再結成があるだろうと思うようになった。最近のぼくにとって、ゆらゆら帝国のライブを見るという無茶な願いは、達成を見越した夢になりつつあった。しかしまた叶わぬ願いに戻ってしまった。本当に哀しい。

 

 月並みの言葉になるが、一生彼を忘れずにいようと思う。一生彼の創った音楽を聴き続けようと思う。今日はいつもより大きい音でゆらゆら帝国を聴こうと思う。

 

ゆらゆら帝国 - 発光体 - YouTube

わたし、怒っています。Tom Meighanとそのファンへ

  でかい声が出てしまった。

Tom Meighan - Club Foot Live - Leicester 2022 - YouTube

この動画に朝から情緒をぐちゃぐちゃにされた。いろいろな感情があるのだが、とりあえずいちばん大きいのは怒りだ。怒っています。

 

  これがどういう状況でなぜぼくが怒っているのかかんたんに説明する。まずこの「Club Foot」という曲はKasabianというバンドの曲で、トム・ミーガンはそのKasabianの元ボーカルである。2020年に彼は暴力事件を起こしたことによってバンドをやめた。で、ここがぼくのもやっとポイントなのだが、Kasabianの曲はトムが書いている訳ではない。基本的にすべての作詞作曲をギター(現ボーカル)のサージが主導している。どう?もやっとしませんか?日本のバンドで例えたら、King Gnuをやめさせられた井口がソロライブで白日を歌っているみたいなかんじ。もやっとする!

 

  これに対して何も思わない人の方が多いのだろうか。ぼくのもやっとポイント2つ目なのだが、トムがKasabianの曲を歌っていることに対して文句を言っている人間がいない。いなすぎる。他に2つ、Kasabianの曲をトムがライブで歌っている動画を見たが、そこのコメ欄も絶賛の嵐だった。まじでひとつも批判コメがない。もやっとします!そんなことある?オタク!それでいいのか!?

 

  そもそもぼくは前からちょっとキレていた。Kasabianがトム脱退後に出した新曲がすごくよくて、ぼくはだいすきなのだが、それに対するファンの反応が、「トムの声が恋しいなあ」「トムの声で聴きたいなあ」なの。まじふざけるなと。Kasabianのメンバーとトムは双方合意で袂を分かって、これからお互いに自分の道を、前を向いてやって行くことになったんでしょ。同じタイミングぐらいでトム自身が出した新曲もそういう決意の曲だった。それなのに応援しなきゃいけないお前らがなーに後ろばっか見てんだと思っていたんだよ。思っていたら!今日!トムが猛烈に後ろ向きに走っている映像を見つけてしまったので!もっと怒っています!

 

  正直トムの歌うKasabianの曲はやっぱりかっこいい。トム脱退後のKasabianの評価は圧倒的に悪くなったというものが多い。それくらいトムのフロントマンとしての才能は圧倒的なのだろう。だからこそここで腐らず成功して欲しいという気持ちなのだが、Kasabianの曲やるのはちげえだろとぼくは思う。どれだけ音楽としてかっこよくても、ロックンローラーが進むべき道としてまちがっているから、ださいよ。どうにかして欲しいです。ぼくはKasabianをすきになって日が浅いから、ずっとすきだったファンの気持ちはわからないけど、あなたたちの応援の方法もまちがっていると思います。いまのKasabianと、いまのKasabianを応援しているひとたちがすきです。

Kasabian - ALYGATYR (Later with Jools Holland) - YouTube

  

【前編】未成年卒業にあてて【未完】

  成人式に行ってきた。正直、ずっと成人式には行きたくなかった。ぼくにとって中学校という環境は本当につまらない地獄みたいなところで、成人式で再会することになる人たちは、言ってしまえばその地獄を構成していた人たちだから。

 

  たぶんぼくの数少ない友人たちは、「成人式コワイ。成人式イキタクナイ」って耳にたこができるくらい聞かされていたと思う。それでも僕の友人は基本的にカウンセラーみたいなやさしい人間ばかりだから、みんな、「こわいね〜。大丈夫だよ〜」ってぼくのことをあやしてくれていた。しかしこの間、ひとりのやつが、「なにをそんなにこわがってるの?」って、本質をつくようなことを言ってきたのだ。ぼくは本質をつかれるとアレルギー反応が出るので、その時は暴れて誤魔化したのだが、確かに、おれは何をこんなにこわがっているのかと。考えてみたらこわがる事なんて何ひとつないのだ。

 

  高校に入ってからは小さいながらもしっかりと友人関係を構築して、中学校の人間でもちょくちょく連絡をくれるやつはいて。幸せなのだ。こんなだめ人間にはもったいない程、まわりの人間に恵まれていると思う。それを今更、同じ時期に同じ地区で生まれた人間と再会するくらいで、なにかが揺らぐだろうか。恥ずかしい話だから本当はしたくないのだけれど、あんなにみんなの前で、「成人式行きたくない!!」って駄々をこねてた手前、成人式まじだりーっすわみたいなポーズをとっていたが、結構落ち着いた気持ちで参加できた。最後まで駄々こねてごめん。あれは演技です。まじではずい。あたしってほんといやだ。

 

  実際、成人式で会ったなかに、地獄の構成員みたいな意地悪な人間はひとりもいなかった。意外にも、「ソウくん一緒に写真撮ろうよ〜」などと言ってくれる人さえいた。うれしい。しかし中坊のぼくにとって中学校は本当に地獄で、ぼくは毎日泣きそうな気持ちで家を出ていた。毎日学校に行く前にぼくが吐いていた、「学校行きたくない学校行きたくない学校行きたくない」という呪詛でうちの母親はノイローゼになったし。かわいそう。ごめんなさい。謝ってばかり。

 

  何が言いたいのかという話なんだが、ぼくはちょっとぞっとしたのだ。中学校がだいきらいだった数年前の自分の気持ちを理解できないことに。ぼくが精神的に成長したって、まわりの人間に救われたっていうだけでも済ませられる話かもしれないが、それではあんまりにあのちっぽけな少年がかわいそうじゃないかと。あいつのために何かできるのっておれだけじゃないですか。

 

  みなさん卒業文集って書いただろうか。中学生の自分ってどんなこと考えていたのだろうと、それを引っ張り出してきて読み返してみたのだ。そうしたら、小学校の文集を読み返して過去の前向きな自分にひたすら打ちのめされるという内容だった。つらい。今読んでも心にダメージを負うような、我ながらいい文章だった。その文章が、「こんな後ろ向きな文章を書いてしまうような中学校生活を送ってしまったので、高校卒業時には前向きな文章が書ける人間になっていたい」と締められていて、「ああ、高校卒業時のわたしはさぼってしまったから、今わたしが前向きな文章を書かなくては」と思わされた。これがぼくにできる過去の自分の救済だと。それでこれを今書いているというわけだ。いや、当時は文集なんて何のためにつくるんだよと思っていたけれど、大事なんだね、その時々の自分の思いを文章で残しておくのって。そう思いました。

 

  それではここから今の自分の考えとか、どのようにして中学校時代から考え方が変わってきたのかとか書いていきたいのだが、行き着くところが今のこのどうしようもない、くだまいてるだめ人間だというのが、本当に、ポジティブな文章にする自信がなくなってきた。中学校の時となんら変わらない後ろ向きなものが生まれてしまったら申し訳ないな。できるだけがんばりたい。

 

  

 

  

 

  

宿命論について

  最近なんのやる気も起きなくて、永遠と折り紙でねずみをつくるだけの機械になっている。わたしがこういうものの凝り方をするの、ガキの頃からなのだけれど、あまりよくないと思う。よく特技としてあやとりをあげる(特技として言えるものがあやとりくらいしかない)が、あやとりもばかたくさんの技ができるというわけではなくて、ひとりあやとり高速周回の効率をいかに上げるかとか、ひとりあやとりはどうして川をつくるときに離す手が変わるのか考えたりとか、すきな技を逆からできるようにしたりとか、そういう易のないことをひたすらやっていた。まあそういう性なのだと思う。折り紙同好会に入ったのはいいけれど、ねずみを折るスピードだけがどんどん上がっていく。

 

  こんな風にあまりにも脳を使わない生活をしていて、やばいと思ったので5年放置していたブログを更新しようと思いたった。講義を受けろと思われるかもしれないが、脳を使うタスクで今のわたしが飛び越えられるハードルがこれしかなかった。お付き合い願いたい。

 

  今日書くのは、今わたしがくずをやっている原因だと自分で考えている、ある思想についてだ。それが宿命論だ。わたしは宿命論について勉強したわけではないので、わたしが信じているこれを宿命論と呼んでいいのかわからないけれど、名前がないと不便なので宿命論と呼称させていただく。今回は、宿命論とはなんぞや、そしてわたしがいかに宿命論を信じるに至ったかなどを語っていこうと思う。

 

  とりあえず宿命論とは、ということでWikipediaから引用させていただく。

宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方。

宿命論という言葉は知らずとも、こういう考え方は誰しもが知っていると思う。今わたしがこうしてブログを更新しているのも、そして書き終わったこの文章をあなたが読んでいるのも、すべては決まっていること、というのが宿命論の考え方だ。

 

  もう少し詳しく書く。今野敏著の「遠くの国のアリス」というSF小説でわたしはこの思想の存在を知った。今この本が手元にないので、完全に自分の記憶を頼りにして書くが、まああたしが信じている考え方ということに違いないので問題ないと思う(問題はある)。

 

  宿命論では、わたしたちの存在は、進んでいく矢印というよりかは、点である。時間はわたしたちの人生上の座標であり、わたしたちはその座標を移ろう点だ。今はこの現在にあなたという存在があるかもしれないが、次の瞬間にはあなたの存在、意識は、小学校の授業中にあるかもしれない。はたまた老衰の果ての死の淵にあるかもしれない。あなたには今の自分自身が最新であるという意識があると思うが、それは間違いであるということだ。あなたという存在が人生の瞬間瞬間を移ろうたびに、直前の記憶が鮮明になり、直後の行動を決定する。未来から過去に飛ぶときにはその飛んだ時点での未来の記憶はリセットされる。このようにしてわたしたちは今を生きているという感覚を覚えている。

 

  「遠い国のアリス」の中で、この考え方のわかりやすい見方が紹介されていた。わたしたちの人生、一瞬一瞬の記憶、感情、その他すべての情報が書かれたポストカードが1枚ずつ収納された棚があるのを想像して欲しい。そこに天使がいて、天使は気まぐれに棚を開けて中身を確認する。確認したらポストカードをまたしまい、別の棚を開ける。永遠に天使はそれを繰り返す。天使が開けた棚に、わたしたちの意識があるという訳だ。これが「天使の郵便棚」とかそういう名前で紹介されていた、気がするのだけれど、インターネッツでいくら調べても出てこないのでたぶん名前が間違っている。フレッド・ホイルが提唱した理論だった気がするのだけれどそれも出てこないのでたぶん間違っている。気になりすぎて木になったからAmazonでフレッド・ホイルの本を買ったので、読んで何かわかったら追記したい。

 

  なんとなく宿命論の考え方が伝わっただろうか。宿命論を使うと、デジャヴュという現象を説明づけられると思っている。かんたんに言えば、リセットしなければならない記憶をリセットし損ねたものがデジャヴュだ。巷にいる予知系能力者の方々も、これを延長して考えられる。彼らはおそらく記憶力がいいのだろう。というよりかは、普通の人間が持っている、未来の記憶をリセットする機能が働かないことがあるのかもしれない。わたしが宿命論を信じるきっかけになった出来事が起こった要因もこれと同じだと考えている。

 

  村上春樹という作家を多くの方がご存知だろう。日本でいちばん熱狂的なフアンが多い小説家かもしれない。高2の冬、模試の帰りに電車で彼の作品、「騎士団長殺し」を読んだ。読み進めていて、ある箇所でわたしは、"模試の帰りに電車のここに座ってこの文章を読んだことがある"と思った。騎士団長殺しを読んだのはそれが初めてであるが、次の展開がどうなるか、ここで主人公がなんと言うか、全てを記憶していた。村上春樹というのが話をややこしくするのだが(村上春樹の作品群は、同じようなシーンが多数ある)、あれはそういう次元の話ではなかった。これをきっかけにわたしは「遠い国のアリス」で語られた宿命論を思い出し、それに取り憑かれるようになった。

 

  宿命論は、漫画の主人公の掲げるような、「運命を変える」「人生を切り開く」みたいな考え方と相反すると感じる人がいるかもしれないが、わたしはそう思わない。たしかに、宿命論は諦めの理由として都合がよすぎる。わたしは典型的なだめな例だ。「自分ががんばらないのはそう決まっているから」という甘い誘い文句にまんまと乗っかって、だめ生活を送っている。本当に弱い人間だ。しかし宿命論を知った人でも、がんばる人はたくさんいるだろう。そういう人はいい人生を送ることが決定しているのだ。宿命論は究極の諦めの考え方でもあるが、悪いことが起きた時に、それを乗り越えるのをすごく助けてくれるものだと思う。わたしは宿命論を信じるようになってから、後悔したことが一度もない。わたしは、後悔先に立たずという言葉がすきだ。後悔している時間ほど無駄なものはない。この駄文をここまで読んだ人が、なにか不幸にあったとき、宿命論を思い出して、後悔する時間を前を向くための時間にしてくれればいいなと思う。5億円そらから降ってこないかな。

「かかしと召し使い」をみんな読みなさい

  ぶち破られる瞬間がある。小学3年生の頃からおよそ10年読書をしてきて、それは3度ほどあった。普段からずっと考えている訳では無いが、おれの中には、「小説のおもしろさってこんなものだよな」という意識があるみたいだ。その上限みたいなものがぶち破られる瞬間があって、もしかしたらそれを味わうためにおれは小説を読むのかもしれない。

 

  1度目は中一の時に読んだ森見登美彦著の「夜は短し歩けよ乙女」だった。頭をガンと殴られたような衝撃という表現があるが、まさにそれがあった。変な感想だけれど、「小説ってこんなおもしろくていいの!?」と思ったのをよく覚えている。底抜けにおもしろい。小説はこんなにもおもしろおかしく書けるのだ。まさに小説のおもしろさの上限をぶち破られる経験だった。小説という地平がぶわっと広がる経験だった。初めて作家という存在を強く意識し、「この人の書いたものは全て読まなくては」と思った。

 

  2度目はカート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」。これは高一の時だったと思う。タイタンの妖女は今まで読んだ小説のどれよりもふざけていて、意味がわかんなくて、美しかった。おれは涙もろい方なので、御涙頂戴の小説を読むとすぐ泣いてしまうのだけれど。どう考えてもタイタンの妖女は御涙頂戴の小説ではなくて、でもおれは読みながらぽろぽろと泣いた。それはその美しさに感動したからだと思う。人間の美しさみたいなものがむき出しになっている小説だ。小説ってこんなにも美しく、感動的なものなのだとヴォネガットが教えてくれた。

 

  そして3度目。ここで「かかしと召し使い」の登場である。「夜は短し」と「タイタンの妖女」に無茶苦茶に広げられたおれの中の小説世界は、ぶあっつい壁でふさがれて、完成されていた。それをかんたんにぶち壊したのがフィリップ・プルマンの「かかしと召し使い」だった。

 

  おれは精神が小学生なので、「一番すきな○○」みたいな話をするのがだいすきだ。でもこれって選ぶものがすきであればある程難しい。たとえばおれはロックバンドがすきだけれど、一番すきなバンドを尋ねられたらそれは決められない。すきな曲なんてなったら尚更だ。でも一番すきな小説を聞かれたら、「かかしと召し使い」って即答する。小説もバンドと同じくらいすきだけれど、かかしと召し使いはおれの中でそれほどに圧倒的なのだ。

 

  「かかしと召し使い」に出会ったのは高三の冬だった。おれはとにかく勉強がしたくなくて、勉強するって親に言って机に向かってずっと小説を読んでいた。家にある小説を全部読み返す勢いで。そんな時にちいちゃな頃に従兄弟にもらった本が詰まった紙袋を見つけた。懐かしがりながら1冊1冊手に取って眺めていたのだが、その中に1冊だけ読んだことのない本があった。それが「かかしと召し使い」だった。それは児童文学だったけれど、その時のおれはとにかく小説に飢えていたし、なぜこれだけ読んでいないのだろうと不思議に思ったのもあってその本を開いた。そしてすぐに夢中になった。夢中で、泣きながら読んだ。児童文学なので大した文量はなく、すぐに読み終わってしまって、読み終わった瞬間にもう一度読み直した。

 

  「かかしと召し使い」に流した涙は「タイタンの妖女」に流した涙とは意味がちょっと違った。かかしの心の気持ちよさに感動したというのも勿論あるのだが、それよりも、文章、ストーリー展開の綺麗さに感動した。読み終わった後、「完璧な小説だな」と思った。これは初めての経験だった。

 

  雷に撃たれて生命を持ったかかしが飢えた少年を召し使いにして冒険するというまあすごく簡単な筋なのだが、各エピソードが本当に素敵でおもしろい。おれは、主従関係、師弟関係みたいなのにとことんよわいのだけれど、かかしと召し使いはおれのその癖にぶっささり。かかしは召し使いのことをすごく頼りにしていて、召し使いはかかしのことをおばかさんだと思ってるけれど、その勇気とやさしさに惚れているという。これがね、本当によいんだ。このふたりの関係性とても素敵。また至るところに皮肉が効いていて、けっこう考えさせられる物語でもある。戦争批判とか、環境問題とかそういう難しいところに、ちからを抜いてさらっと言及しているのがすごく格好いい。「夜は短し歩けよ乙女」と「タイタンの妖女」はある程度小説を読み慣れた人でないと楽しめないかなと思うけど、「かかしと召し使い」はなんてったって児童文学なので、小説を普段全く読まないという人でも絶対に楽しめる。みんなに読んで欲しい、隠れた名作。おすすめです。

 

 

  

 

 

  

  

蚊に刺されました

  オンラインの講義が終わって、今日も今日とて音楽を聴きながらだらだらとしていた。無意識に左腕をかいたが、どうにも痒くてふと見ると、赤いぷっくりがつくられていた。最近あったかくなってきたから、とうとうやつらが動きだしたらしい。もう、蚊の季節である。

 

  蚊に刺されると、いつも考えることがある。最初に蚊をたたきつぶした輩は、ガチの超重罪人であるということだ。知っているだろうか。蚊という生き物は、ぼくたちから血を吸う時にご丁寧に麻酔を注入してくれるということを。その麻酔っていうのは、蚊の唾液の事なんだけど、それによるアレルギー反応でぼくたちは毎夏、毎夏、「かいーかいー」と騒がなければならないのである。話を戻す。最初に蚊をたたきつぶした輩が重罪人であるという話だ。先に言っておくと、この話は「蚊の唾液の麻酔効果は後天的なものである」という前提でする。実際のところは知らん。もしかすると、蚊っていう生き物の唾液は、蚊という生き物がこの世に生まれた時から麻酔だったのかもしらん。それは考えない。だからこれからする話はただのぼくの妄想みたいなもんだ。

 

  蚊が生まれる。卵を産む時がやってきて、彼女は人間の血を必要とした。彼女はこっそり血を吸おうとした。しかし、その時彼女はまだ麻酔効果を持つ唾液を持ち合わせていないため、人間に気付かれてしまった。ここである。ここでこの人間が心の広い、大きな人間ならば問題はないのである。しかし、こいつは器の小さなくずであった。産卵を控えた彼女は無慈悲にもこの人間にたたきつぶされてしまった。これは問題である。生き物は子孫を残すため、生まれてくる。そのためには蚊たちは人間の血を吸わなければならない。そこで彼女たちは進化の末、必然的に麻酔を手に入れるのである。こうなるともう終わり。謎の痒みの原因がこの小さな虫だということを知った人間たちは蚊を躍起になって殺し始める。腕に止まったところを見ようものなら即ばちんである。蚊取り線香なる殺蚊兵器まで生み出される始末である。蚊たちはもういよいよ麻酔を手放せない。殺し合いの螺旋である。否、殺し合いというのは間違いだ。一方的な殺戮と、やむを得ない事情によるところの小さな痒みによる意図しない報復の連鎖である。人間が悪い。蚊が1回に吸っていく血なんぞ、ぼくたちの体を流れるこの血を見れば、本当になんでもない量である。そのなんでもない量の血を彼女たちに恵むことを拒み、たたきつぶした最初の人間は極悪人である。こういうことだ。

 

  ちなみにぼくは、詳細な時期は忘れたけれど中学生の時分に、あんなちっぽけな虫を必死になって殺そうとしている自分を情けなく思ってから、神に誓って一度も蚊を殺していない。これはまじ。「お前がばちんとやっているところを見たぞ」というやつがいるかもしらん。それはただばちんとやりたかっただけ。その言い訳として、「蚊がいたのさ」という最も適したものを使用しているだけである。そういう、いきなりばちんとやったり、些細な嘘をついて喜ぶ人間なのだ。許してくれ。話を戻す。いつまでこの殺戮と、意図しない、やむを得ない報復の連鎖をぼくたち人間と蚊たちは続けなければいけないのか。どこがでどちらかが下りる必要がある。小さな子どもたちは、よく叩きあう。先に叩いた方は、どうしても相手よりも1回多く叩きたくて、叩き返した方は、相手よりも叩く回数が少ないとやばい損をしたような気になる。あれはその子たちの精神年齢が低ければ低いほど長く続く。あれは先にやめた方の勝ちなのだ。負けたような気がするが、絶対的に先にやめた方が大人で、格好がいい。そんな訳でぼくはこの殺戮と報復の螺旋に対するささやかな抵抗として、いつも彼女たちに血を提供している。ぼくの名前であるこの「壮」という字には、両親の、心の広い、大きな、やさしい人間になって欲しいという願いが込められている。それはとても難しいことだと思う。小さなことからやっていく。ぼくは蚊を殺さない。

 

  最後終われなくてなんか無理矢理いい話っぽくしてみた。ここまで読んだ暇人のあなた、ありがとう。

いつ書いたかもわからん下書きがあったので書きかけだけど投稿しちゃあ

 ここ何日間のおれはガチでやばい。カラオケで隣の部屋に勢いよく乱入。人違いで知らない人に話しかける。これを2回。脳が弱っているとしか思えない。考えることを放棄している。皆さん、やったことあります?知らない人に話しかけるの。きついよ。焦りまくって、「すみません、まちがえました。すみません、まちがえました」ってぼそぼそ繰り返してる時が1番きつい。その後その人が、「やばい人に話しかけられちゃったよ」みたいなかんじでちょっと離れた所に行くのが2番目にきつい。500%おれが悪いけど、もう少し優しくして欲しい。死にたくなる。知らない人に話しかけるのは前にも脳が弱っている時に何回かやったことがあるので耐性がついてるんだけど、カラオケ乱入はまじで死ぬかと思った。きつい。

 通称『心現象』も最近頻度を増している。これは夏目漱石の『心』から来てるんだけど。ふとした瞬間に、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」っていう言葉がフラッシュバックして頭を埋め尽し、おれの心を引きちぎるんだよ。「僕は馬鹿だ」って言うと治る。これがきつい。病んでるのかも知らん。

 やってらんねーーー!!こんな時はドラッグだ。電子ドラッグ決めこもう。

 

翼もください/ヤマトパンクス from PK shampoo - YouTube